空中写真で見る仙台鉄道

 2008年1月

2012年10月改訂

 

その8で空中写真で見る仙台鉄道について勝手な意見を適当に書きましたが、

あれから4年以上が経過し、

国土地理院のホームページで確認出来る昔の空中写真がかなり増えていることが判明。

4年前には分からなかった線路跡が分かったところも出てきたため、

鉄道の日と鉄道開業140周年を記念?して、改訂版を作ることにしました。

ページのベースはその8をそのまま利用します。

 

利用した写真情報

国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)

 

さて早速始めたいと思いますが、

その7同様に中新田駅からスタートしますが、特に意味はありません。

なお空中写真はとくに記載のないものは昭和50年のものを使用しています。

で、まずはこれ。

昭和50年の空中写真であるが、現在のJR西古川駅が右上にある。

赤いラインがあらゆる情報を元に予想した廃線跡である。

中新田駅付近の線路は90度回りこんで西古川駅に並ぶように乗り入れており、

昭和22年の空中写真から大体の線路位置が判明した。

西古川駅付近を拡大した写真に線路位置を入れてみたもの。

なお廃止から1年後の昭和36年の空中写真を見てみると、もうこのカーブは分からなくなっている。

 

B地点は多田川を渡る橋梁の橋台とコンクリート暗渠が確認された地点。

    C地点は用水路に石積みが確認された地点。

ではA地点は何かと言うとこれを見ていただきたい。

部分的に拡大したものであるが、ゆるやかにカーブする路盤の跡がうっすらと見える。

昭和50年頃では廃止されて約15年ですからかろうじてこんなものも確認できます。

続いてB地点を拡大したもの。

右の○印が多田川の橋台跡と暗渠。

真ん中がコンクリート暗渠。

左がC地点で石積みのあったところ。少しだが築堤も残っているように見える。

昭和36年の空中写真では、このあたりは全て築堤になっているのが確認出来るが、

左の○も築堤の一部であることが判明した。

実はここに興味深いものがある。

畦に沿って赤ラインを引いてみたのだが、次の写真と比較してみると・・・

その7で登場した石積みの真後ろの写真だが、畦の形がぴったり合っている。

どうやらここが築堤で抜けていた廃線跡で間違いないようだ。

つづいてはこれ。

昭和36年の写真では、こんな感じで線路跡が残っている。

カーブのあたりは現在新しい道路が出来ており、随分様子が変わっている。

加美中新田駅をアップにしてみる。

バスが止まっているのが見える。だとすれば宮城交通のバスだと思われる。

右側に縦にスペースがあるがこれが廃線跡なのだろうか?

つづいては

鳴瀬川橋梁のあった場所である。

昭和36年の空中写真を見ると、当時の道路橋は水色の位置にあり、

現在の道路橋とほぼ同じ場所に鳴瀬川橋梁の橋脚だけ残されているのが分かる。

下の○を拡大してみる。

実は私が所属していたソフトボールチームの監督に仙台鉄道の話をしたところ、

「最近まで道路の脇に橋脚が残ってたんだぞ」と言われたのである。

話を聞くとどうもこの辺らしい。

最近というわりには昭和50年に確認できないのであるが・・・

場所が違うのであろうか?それとも見えないだけ?

昭和36年の写真では確かにこの位置に一対の構造物らしきものが確認出来るのだが。

つづいては

鳴瀬川から四釜駅に至る部分。

写真真ん中の○を拡大してみると・・・

築堤らしきものが残っている。

昭和22年と36年の写真を見ると、これが廃線跡の築堤で間違いないようだ。

鳴瀬川橋梁へ向けて築堤で高度を稼いでいたものと思われる。

次の写真。

四釜駅から花川付近。

花川は昭和36年の写真を見ると、この時点で既に河川改修が終わっていて、

遺構などは確認出来ない。

昭和22年の写真もあるにはあるのだが、1/44000の縮尺でよく分からない。

この先加美一ノ関駅付近は最近のものと大して変わらず、とくに新たな発見はなかった。

一気に加美一ノ関駅を通り越して、一気にあの杉林〜愛宕山までの写真。

2箇所のポイントから線路位置を割り出したのだが、

まず上の○を拡大してみる。

完璧に杉林が割れていて、路盤の位置がはっきり確認出来る。

昭和31年の写真では、この南側に愛宕山まで続く路盤が確認出来るので、

この位置で間違いないだろう。

続いて下の○。

愛宕山頂上付近。

下の写真と同一地点である。

右にカーブしていく畦がはっきりと確認できる。

つづいては

軽トラックのおじいさんの話を元に割り出してみた予想図。

昭和31年と36年の写真で確認すると、線路位置はほぼこれで間違いないようだ。

ちなみに2008年にはここを王城寺原駅としたが、これは間違っていた。

こちらが正解。

しかし昭和22年と31年と36年の写真を確認したが、

駅があったかどうかはどれもよく分からなかった。

さらに南下した場所。

本町駅はこの辺だったと思われるが、痕跡は全くない。

この南側に鉄塔があるのだが、

2002年にこのあたりにいた地元の人に聞いたところ、

「鉄塔の東側を通っていたはずだ」という証言をもとに予想した。

昭和31年、36年の写真を確認したところ、写真下に映っている建物が既にあり、

その東側を直線的に抜けていたので、水色線で訂正した。

さらに鉄塔との位置関係を確認すると、鉄塔のすぐ東側に軌道があった模様。

これが鉄塔が入った空中写真。

本当に鉄塔のすぐ東側だったようだ。

下の○はこの後紹介する現存している廃線跡である。

さらに南下したところ。

上の○が約20mの路盤を見つけたところ。

この路盤はグーグルアース2011年4月6日版でもまだ確認出来る。

下の○は廃線跡が道路になって現れるポイントである。

拡大してみる。

この当時は20mなんてもんじゃなく、もっと長く路盤が残っている。

それが昭和59年になると・・・

約20mに短くなってしまった。

上のS字の道と右側の水門の位置を参考にすると分かりやすい。

さらに同一地点の写真。

S字になっているので上の写真の位置と分かる。

つぎに下の○付近を拡大してみる。

廃線跡が道路となって復活している。

さらにその上のほうをよく見ると、うっすらと路盤跡のようなものが見える。

左にゆるくカーブしており、さっきの路盤跡とうまくつながる。

つぎの写真は

このあたりは線路跡の道路をトレースしただけである。

道路をトレースして南下。

すると、ようやく大童駅付近に到達する。

上の○は木橋のあったポイントである。

グーグルアースを見ると、2011年4月6日時点でこの木橋は撤去されており、

付近の廃線跡の道路も拡幅工事をしているのが確認出来る。

大童駅とクロスする道路は現国道457号線である。

さらに道路をトレースして南下すると、ついに掘割付近に到達する。

上の○が掘割があった場所。

下の○は地元のおばあさんに教えてもらった草ぼうぼうの廃線跡があった場所である。

これを見ると防火水槽のあった場所は廃線跡から若干東にずれているうえに、

そこからつながっていた舗装道路は全く関係ないことになる。

昭和23年と36年の写真で確認したところ、やはりこの位置で間違いないようだ。

そして、どうやらこの資材置場の中を右手前から左奥方向に抜けていたようである。

最近の画像で確認したところ、この資材置場はすでになくなっているようだ。

つづいての写真

吉岡駅に至る線路の予想図。

左の○が現在も残っている路盤跡の場所。

拡大してみる。

この路盤跡はグーグルアースでも確認できる。

下の写真と同一地点である。

軽のワンボックスが止まっている地点が上の写真の路盤跡の右端、

畦が鋭角になっているポイントであると思われる。

では次

吉岡駅から高田橋に至る予想図であるが、

カーブの位置について、昭和23年の写真を確認してみたが、

少しずれていることが判明したので水色線で訂正した。

このカーブのあたりは現在区画整理が入ってしまい、完全に判別不可能となってしまった。

高田橋付近を拡大してみた。

○の中に橋台らしきものが確認できる。

南側の橋台の周りにまだ車などは捨てられていないようだ。

南側に少しだけ路盤が残っている。

つづいてはまだ現地調査していない区間に入る。

まずは志戸田駅付近の写真である。

以前調査した時に志戸田駅跡の小屋で見つけた仙台鉄道の絵は、

2011年に確認したところなくなっていた。

その小屋の位置から推測すると駅の場所は合っていると思われるが、

志戸田駅から南側については、

昭和23年の写真で位置が確認出来たので水色線で訂正した。

これを見る限り現在は完全に路盤は消失しているようだ。

ちなみに赤線でトレースした道路は昭和23年当時はない。

さらに南下した。

この場所だけは線路跡が全く分からなかったが、

昭和23年の写真で位置は判明したので、水色線で追加した。

上の○を拡大してみる。

右上の道路とその延長線上にある謎の直線的な防風林。

当初はここから辛うじて線路跡を推測した。

次に下の○

左下から右上に斜めにうっすらと路盤跡のようなものが見える。

昭和59年になるとこれは確認できなくなっているが、

昭和23年、31年の写真で確認すると、廃線跡はここで間違いないようだ。

 

つづいては

さらに南下したもの。

上の○の地点から再び線路跡が道路になって現れる地点である。

富谷駅跡には現在も貨物用に使われたであろう古い倉庫が残っている。

上の○の場所を拡大してみる。

ここから廃線跡が道路になって現れる。

川に対して斜めに架かっている橋梁が確認できるが、

現在は新しい橋梁が川に直角になる形で架け替えられている。

この廃線跡の道路をトレースしながら南下していく。

画像上の富谷駅南側の路盤については、川を渡るところまで既になくなっている。

現在このあたりの道路の脇にある鉄柵に仙台鉄道の絵が描かれている。

南下していくと陸前小野駅に到達する。

現在ここには倉庫とJAが残っている。

さらにトレースして南下していく。

現在はこの道路の右側に片側2車線の広い道路が出来ており、

その関係でこの赤ラインの道路は車で通り抜け出来なくなってしまった。

更に南下。

現在このあたりは新しい道路が廃線跡をオーバークロスしてしまい、

部分的に埋められて道路形態そのものが変わってしまっている。

昭和23年の写真で画像下の丁字路付近の廃線跡に修正が見つかったので、

水色線で訂正する。

更に南下。

右側に見える運動場らしきものは、富谷町の厚生年金スポーツセンターである。

右側に泉ヶ丘団地が見え始める。

現在は写真左下のほうに泉ヶ丘小学校が建っている。

ついに国道4号線にぶつかる。

この地点が陸前大沢駅とされる。

仙台鉄道の途中駅の中では唯一給水タンクがあったと言われている。

写真では丁度東北自動車道が工事中である。

ここから国道4号線に沿って南下していく。

この写真を見ると、どうやら4号線の拡張工事の際に線路跡を利用されたように見える。

昭和23年、36年の写真で確認したところ、

泉インター付近は北側に大きく迂回していることが確認されたため、水色線で訂正。

ちなみにこの頃にはインター付近は川の流れが人工的に変えられている。

左に見える団地は将監である。

写真上のほうにあるテニスコートが現在いずみパワーモールがある場所。

その右側は向陽台。この団地から4号線におりてきた地点には現在でも側道があるが、

これが廃線跡とされており、山の寺駅があったようだ。

下の○はレンガ積みの橋台が現存しているポイントである。

さらに昭和23年の写真を詳しく見たところ、

現4号線をそのままトレースしてはおらず、外れているところもあるようだ。

いずみパワーモール付近はかなり山側に線路があったようだ。

これは昭和23年の写真、川の流れ、ピンク線で示した旧4号線の位置関係から割り出した。

そして、国道4号線から離れて七北田駅に向かう。

このあたりの線路跡は、七北田駅付近まで道路になって残っている。

最近までは駅前の雰囲気が割と残っていたが、

新しい免許センターへ通じる広い道路が出来た頃から様変わりし、

現在は完全に住宅地になってしまった。

昔はこのあたりに猫沼(と私は言っていた)という沼があって、ザリガニ釣りをよくやった。

線路跡は旧運転免許センターをかすめ、七北田川へ向かう。

線路跡は自然災害によって流失した七北田川橋梁で川を渡り、

現在の仙台市交通局の敷地を抜けて八乙女駅へ向かっていた。

その先はおそらく仙台川に沿って進んでいたものと思われるが、

昭和22年の写真を確認すると、

仙台川の流れが河川改修によって大きく変わっており、

改修前の川の流れに合わせて、廃線跡を水色線で訂正した。

○の部分を拡大してみる。

コンクリートか何かのプラントの敷地の右側が直線的に切り取られている。

おそらくこれが線路跡を示すものではないかと推測される。

八乙女駅もこの辺だったらしいが、確認できるものは何もない。

旧国道4号線(現県道仙台泉線)と仙台川に挟まれるように南下していく。

中央の赤い屋根は黒松ホール(現ワッセ)と思われる。

このあたりから台原森林公園から続く道路をトレースしてみた。

昭和22年の写真もこのようになっている。

現在は台原森林公園になっている地点だが、当時はまだ整備中のようだ。

開かれた部分をトレースしてみるとこんな感じだろうか。

途中から道路と合流して南下し、長命荘住宅の南側を回りこむ。

そのまま小松島へ抜けていく。

拡大してみる。

昭和23年の写真と、道路、家の並びを頼りに予想してみた。

大きく回りこんで東照宮駅へ向かっていく。

小松島小学校付近からは線路跡が舗装道路となって現存しているので、そのままトレースした。

後から出来た仙山線がオーバークロスしているが、この地点に仙台鉄道の名前が確認できるガードがある。

すっかり有名なポイントになってしまっているが。

線路跡の道路は上杉山中学校の脇までつづくが、ここで途切れ住宅地になっている。

ここからは仙山線に沿うように進み、元北仙台駅の宮城交通本社の土地へ吸い込まれていく。

現在はついに宮城交通の本社もなくなり、マンションが建っている。

北仙台駅付近を拡大してみる。

右の○がバスが止まっている宮城交通本社で、2代目の始発駅。

市電が北仙台まで伸びてくる前は、真ん中の○付近にあった通町駅から出発していた。

資料によると通町駅は、行き止まりで2面2線の対向式ホームがあったようだ。

左の○の中に細い通路があって、もう少し先まで伸びていたのかと思い調べてみたが、

なりがんぽうという水路で、明治時代からある水路の一部らしい。

明治時代は青葉神社の南側が競馬場になっており、

やはりこのあたりは栄えていたようだ。

 

と、ここまできたところで用意したすべての写真を使い切りました。

おそらく多少のズレはあるかと思うが、大体の位置は合っているのではないかと思う。

その7とあわせて多少の参考になればと思います。

 

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