幻のガソリンカー三百人町駅の現状レポ
2013年1月
戦前の昭和4年に東北本線仙台駅〜塩釜駅(現塩釜駅ではなく塩釜線塩釜埠頭駅→既に廃止)間で
ガソリンカー(キハニ5000形式)が走り始めました。
が、故障続き(クラッチすべりらしい)でわずか3日で廃止。
その後故障部分を改善し、昭和7年8月に再開。
路線も長町駅〜塩釜駅間に延長。
昭和8年8月15日にガソリンカー専用の駅として、三百人町、行人塚、小田原東丁の各駅を設置。
昭和7年7月に苦竹信号所から駅に変更して開業していた東仙台駅、
昭和8年8月15日に開業した多賀城前駅(現陸前山王駅、当時ガソリンカー専用駅だったかどうかは不明)も含めて、
最終的には、南から長町駅、行人塚駅、三百人町駅、仙台駅、
小田原東丁駅、東仙台駅、岩切駅、多賀城前駅、塩釜駅に停車していたようです。
しかしその後、戦時統制による燃料不足で運行本数が減っていき、
ついに昭和19年11月11日に廃止となってしまいました。
※その4日後の昭和19年11月15日には岩切〜品井沼間の通称海線が単線で開通しています。
もともと本線の駅として設置されていた各駅は残ったものの、
ガソリンカー専用として設置された3つの駅は廃止後撤去されたようで、
一見何も残っていません。
しかし、2012年11月にたまたま三百人町駅上り線ホーム(長町〜仙台間は大正11年に複線化されており、
三百人町駅は対向式ホームだったようです)に隣接する民家の住人と接触する機会があり、
お話を伺ったところなんと昭和8年に駅を設置した際の上り線ホームへの通路の図面があるとのこと。
しかもその方(今後Aさんと表記します)は実際に乗った事があり、よく岩切の親戚の家に行く時に乗っていたとのこと。
※ちなみにその図面の日付は昭和8年8月18日となっていて、開業日の8月15日よりなぜか3日後になっている。
その方のお話と現地の現在の写真をもとに三百人町駅の現状をレポートします。
まず駅の位置ですが、東北本線三百人町ガードから100mくらい仙台駅寄りにあったようです。
で、下り線ホームについては、残っていたものがあったとしても、
新幹線の工事の際に跡形もなく撤去されただろうとのこと。
実際に見てきましたが、本当に何もありませんでした。
平成24年11月時点での三百人町駅へのアプローチ通路。
現在はスロープ状になっていますが、当時は入り口付近は階段だったとのこと。
実際、通路右側の掘削工事の際に、階段の一部と思われるコンクリートが出てきています。
三百人町駅設置に当たり、鉄道省がこの通路を買収し、現在はJR東日本の所有です。
なので、通常は勝手に入れません。私はれっきとした用事があったのでラッキーでした。
ちなみに手前の道路は仙台市道で、右に行くと若林区役所です。
その通路を進んでいくと、図面では線路寄りに一段高くなった通路が続き、
Aさんの話によると最終的には鉄階段で築堤上のホームに達していたようです。
通路を少し歩くとこんなものがありました。
何か駅に関連する構造物かと思いAさんに確認してみると、
昔はここに見張り台のようなものがあったとのことで、その基礎だと思うとのこと。
1枚目の写真の後ろ側にこんなものがありました。
見張り台のようなものですが、おそらくこんなものがあったのだろうと思います。
昔はこのあたりに見張り台がいくつかあったとのことですが、
一体何のためにあるのでしょうね?
とりあえず先に進む。
かなり進んで振り返り、市道方向を見る。
何気ない写真ですが、実はこの写真の中に駅施設の一部が現存している部分が写っているのです。
ズバリ!それは画面右下の石積みです。
この石積みはホームへと続くアプローチ通路の擁壁なんだそうです。
Aさんの話によると、通路から石積みの上へ登る階段(鉄階段ではなかったとのこと)があり、
この石積みの上を歩いて上り線ホームへ続く鉄階段に行けたとのこと。
だいたいこんな感じでしょうか。
ちなみに、現時点では法面はコンクリートで覆われていますが、
当然昔はこんなものはなく、というか数年前までなかったとのこと。
数年前の工事の時、この石積みも埋めてしまうつもりだったみたいですが、
Aさんが「せっかく残ったのだから保存したらどうか」と言う話をして現存につながったみたいです。
まさにファインプレーでした。
ちなみにこの奥はというと・・・
しばらく石積みは続いています。
さらに奥へ。
石積みはまだまだ続いています。
上のほうに見張り台の基礎が見えます。
さらに仙台駅寄りに進んだところ。
おそらくこのあたりに上り線ホームへの階段があったのではないかと思います。
Aさんによるとその階段は鋼製で、奥が抜けているタイプの階段だったとか。
大体こんな感じでしょうか。
さすがにこれ以上はJRにも迷惑がかかるので進みませんでしたが、
この上にかつて上り線ホームがあったのです。
ホームの構造についてAさんに聞いてみたところ、
ホームを支える支柱はレールを使っていて、
この法面に何本かレールを打ち込み、それを支柱にしてホームがあったとのこと。
しかも数年前の法面のコンクリート工事のときまで、
そのレールの支柱は残っていたというのです!
残念なことに、工事の後にはコンクリートがかぶされて見えなくなったとのこと。
レールなら戦時中は重要な資源ですが、それを残したと言うことは、
残す理由があったか、もしくは取れなかったか。
前者なら戦後また復活させようと思っていたか。
後者なら単純に線路の路盤に影響が出ないように抜く技術がなかったか。
結論はどちらでもいいんですが、おそらく後者なら現代でも無理じゃないかと思います。
立地的に重機は入れないし、入れたとしてもやはり抜くことによって路盤に影響が出てしまったら、
丁度カーブでカントもあるだろうし、抜くよりは地面ギリギリで切断して、
上からコンクリートを被せてしまった方が間違いないはず。
というわけで、個人的には支柱のレールはまだ地面の中に残っていると思いますが、果たして?
それからもう1つ。
使用していた車両がキハニ5000形式ということで、
ニが入っているということは、荷物輸送もしていたということになります。
苗穂にキハニ5005だけが現存しているようですが、
その写真を見ると片側の助手席の窓に保護棒が入っているように見えます。
ちなみにAさん宅は自営業をやっていて、それに使う資材をガソリンカーで運んでいたとのこと。
しかし車両長が10mしかない車両で、人も乗せて荷物も運んでいたとは恐るべし。
キハニ5000形式 キハニ5005 (原著作者 Tennen−Gas)
これはJR北海道苗穂工場に静態保存されているものですが、なぜかサボが仙台ー塩釜になっています。
実際にこのキハニ5005が当該路線を走っていたものかどうかは分かりません。
Aさんにこの写真を見せたところ、形と塗装はこれで間違いないと思うとのこと。
ちなみに右側の助手席あたりが荷物室になっているように見えます。
以上が今回分かったことです。
昭和8年の図面は個人情報が含まれるため、残念ながら公開することは出来ませんが、
この図面とAさんのお話で作り上げたこのページで、
在りし日の三百人町停車場上り線ホームの概要は大体お分かりいただけたかなと思います。
ちなみにこの図面には寸法が入っていますので、調べれば正確な位置は分かるかもしれません。
ただし、古い図面のため単位はメートルではなくKとなっています。
Kはおそらく間(けん)のことではないかと思いますが、
実際に測ってはいないので正確なことは分かりません。
また何か新しいことが分かれば、随時改訂していくつもりです。
残っててくれてありがとう。