仙台鉄道

 2008年1月

 

その6で申しましたとおり、その7では仙台鉄道のことについて

勝手な意見を適当に書いてみます。

(なおこのページに記載されていることは、2002年当時に行われた現地調査を元にしていますが、

個人的な見解が含まれており、事実と異なる場合がありますのでご了承ください。)

そして2002年4月に調査した資料をもとに現地調査へ出発いたしました。

調査は私とA氏、それから現SRC副会長兼SRC高速鉄道部長H氏がメインで進めました。

普通は起点側から始めるのでしょうが、とくに理由もなく終点側から始めたのでした。

スタート地点のJR西古川駅です。仙台鉄道が乗り入れていた頃は中新田駅でした。

写真はまだデジカメが完全に普及する前なので、普通のカメラで撮りました。

なので、写真を直接スキャナーで読み込んだものなのであまり映りがよくないです。

さて現場ですが、ご覧のように見事に何もありません。

線路跡なども見た目まったく分からないので、仕方なく付近を散策してみますと・・・

ある資料で言っていた通り、とある民家の庭に駅のプラットホームに使われていたという石版が。

早速このお宅に突撃取材を敢行。

やはりこれがその石版だということで、家の工事のとき大量に出てきたのでそのまま使っているとの事でした。

さらにこの付近の調査を進めると・・・

本などでよく取り上げられている廃線跡とされる敷地を発見。

さらにこの付近ではこんなものが・・・

とある空家の壁にこのようなものが。

はっきりと中新田駅前とローマ字で書かれている。

中新田駅は1957年4月1日に西古川駅に改名されているので、

これは昭和32年よりも前に使われていたものと推測できる。

こんな貴重なものをなぜ補修の板に使ってしまったのか、今となっては知るすべもない。

この地点を後にし、さらに廃線跡を立証するものを探すが・・・

ごらんの様にこのあたりの路盤は完全に消失しており、調べても何もでないのでありました。

そんなわけで我々は遺構が残っているとされる次の地点に向かいました。

その地点は当時橋梁で多田川をこえていたという場所。

橋台が残っていると言うことだったが・・・

風化してはいるものの、やはり残っていました。

この多田川は周りより高い位置を流れる天井川のため、奥の土地がやたら低く感じる。

この写真は西側の橋台跡であるが反対側は・・・

すっかり草に覆われてはいたものの、確認することは出来ました。

さらにこの橋台があった堤防の後ろには・・・

このようなコンクリート製の暗渠があった。

これも鉄道の遺構らしい。

さらに中をのぞいてみると・・・

こんな感じ。

両側は石積みになっているが、この石積みはまた登場するので覚えておいて欲しい。

多田川の調査も終了したので次のポイントへ。

先ほどの西側橋台跡の先であるが、

丸の中にコンクリート構造物のようなものが見える。

資料によると、これも鉄道の遺構だというのだが・・・

早速そのポイントへ移動してみた。

さっきのコンクリート暗渠と同じような構造である。石積みも確認できる。

ここからさっきの橋台跡を見てみる。

橋台跡からまっすぐ向かってくるとこの位置にぶつかるので、間違いなく鉄道の遺構なのだろう。

写真下の灰色のザラザラが構造物である。

周りの築堤が消失してこれだけが残ってしまったらしい。

この地点を後にし、さらに西に進んでみる。

さっきの地点から直線の延長線上でぶつかった用水路である。

写真中央の黒いのが先ほどの構造物である。

この写真をよく見ていただきたい。石積みが確認できる。

アップにした写真。

この石積みは先ほどの構造物と多田川付近の暗渠で見られた構造とかなり似ている。

と言うことは、以前はここにもあのコンクリート暗渠があったのであろう。

水田の中に消失した線路跡を求めて我々はさらに西に向かおうとするが・・・

ごらんのとおり何もない。

前の写真の石積みの反対側なのであるが、なんとなく不規則な畦がヒントっぽいが・・・

ここはあきらめて先へ進む。

次の地点は国道347号線とクロスしていたであろう場所。

写真は東側を向いて撮影している。

資料によるとこの辺なのだが・・・

前の写真の反対側。もはや何もない。

しかしもう少し進んでみると畑仕事をしているおじさんがいたので、またも突撃!

すると「そこが線路跡だぞ」と指をさす。そこは・・・

こんな場所。明らかに手がつけられていない。

なんでもこの盛り上がっている部分が築堤跡なんだとか。

おじさんによるとここからカーブを始め、加美中新田駅に向かっていたという。

写真の奥のほうに白い柵があるのが分かるだろうか。

近寄ってみた。

白い柵は公園を仕切るためのものなのだが、脇に細い通路がある。

さらに寄る・・・

さっきの写真と逆向き。

何しろ狭いので線路跡とは言い切れないが、おそらくこのあたりだったと思われる。

さっきの写真の加美中新田寄りには、カーブが終わったと思われる場所に、

やはりこのような狭い道が存在する。

その反対側は・・・

とある資料に乗っている廃線跡とされる場所にぶつかるのである。

このあたりで突撃取材を敢行してみると、やはりここが廃線跡なのだそうだ。

この場所からまっすぐ南下すると・・・

今はなき、もと加美中新田駅として有名なSEIYUにぶつかるのである。

奥に見える黄色い建物はJAである。

そういえば西古川駅のすぐ近くにもJAがあった。

これは仙台鉄道が農産物なんかを貨物輸送していた名残ではないかと思う。

そしてさらに南下してみる。

写真中央の黄色い建物がJAである。

北を向いて撮影している。

JAからわずかに道路(車が止まっているのが見える)があるが、それもすぐ途絶え、

このように農地になってしまっている。

この後ろ側はというと・・・

またもこのような細い通路が現れるのである。

周りの状況から見てもおそらくこれが廃線跡なのだろう。

しかしその細い通路もしばらく進むと完全に消失してしまう。

もはやこのあたりの調査はあきらめつぎの場所へ。

そして、鳴瀬川駅があったとされる地点に来て見た。

例によって何もない。

加美中新田駅方面を眺めてみても何もない。

仕方ないので仙台鉄道最大の橋梁だったという鳴瀬川橋梁の調査へ。

またも何もない。

河川改修などが行われており、遺構はすべて撤去したと思われる。

この写真は南向きに撮ったもの。

南側堤防から北を見る。

ここでこんな資料がある。

膨大な資料の中ですでに出典元が分からなくなってしまったものである。

鳴瀬川橋梁の工事風景らしいが、立派なデッキガーター橋である。

それに比べて橋脚のコンクリートはかなり粗悪なものにみえる。

とりあえず掲載したが、問題があればすぐに削除するしかない。

そしてこの鉄橋は高架線のまま現在の国道457号線を越えていたらしいのだが、

もはやどこなのかまったく見当が付かない。

付近を歩き回ってみたものの、手がかりは一切なし。

あきらめて次の場所へ。

これは四釜駅があったとされる場所である。

色麻町役場の敷地の隅にある。

その向かいにはやはりJAがある。

このあたりで昼食に食べた釜飯が絶品だった。←まったく関係ない

ここから花川へ向かう廃線跡をたどってみる。

これが廃線跡の道路である。

花川から四釜駅を向いて撮影した。

最初は右の砂利道も気になっていたが、突撃取材の結果こちらで間違いなかった。

取材したおじいさん「仙台鉄道の調査?また走らせるのか?」と言うので、

趣味で調査してるだけなんですよ、と言ったら残念そうな顔をしてました。

やはりこの年代の人には夢の列車だったのかも知れません。

さっきの写真の反対側。

この道路も花川の堤防で止まってしまっている。

堤防の上から四釜駅方向を望む。

残念ながら花川も河川改修を受けて遺構は何も残っていなかった。

ここから加美一ノ関駅あたりまで調査するものの、

これと言って発見もなく、仕方なく次のポイントへ移動した。

加美一ノ関駅から南下した場所。

資料によると線路を撤去しただけの杉林と小さな橋台があると言うのだが・・・

おお!橋台発見!!

しかもほとんど傷んでない!

この形は、プレートガーターか何かで渡っていたのだろうか?

北側橋台のアップ。

南側橋台のアップ。

後ろは杉林。とするとこの先には・・・

ありました!

モーゼの十戒のワンシーンのように軽便サイズの幅だけひらかれている。

まさしく路盤もそのままの廃線跡。

かなり草生してはいるが、写真を見れば分かると思う。

そしてその先は・・・

杉林のトンネルを抜けるとそこは・・・たんぼだった。

しかしここには間違いなく路盤があった。

線路はこのまま愛宕山へ向かって登っていくことになる。

愛宕山から杉林を望む。

今となってはなにも当時を語るものはないが、間違いなくあの杉林へむけて

レールは敷かれていたのだ。

ここでまた出典元不明の資料である。

愛宕山から加美一ノ関方面への路盤が完成した時の記念写真らしい。

路盤が一直線にあの杉林を貫いている。

貴重な資料なのだが、これも問題があればすぐに削除しなければならないだろう。

さて、愛宕山の頂上付近の写真である。

この舗装道路は国道457号線から続いている廃線跡らしいのだが、

ここで急に左にカーブして消えていく。

しかし写真をよく見て欲しい。

舗装道路は左へ消えていくが、畦は逆にゆるく右にカーブしている。

たまたま通りかかったおじいさんに突撃取材をしたところ、

やはりこの舗装道路が廃線跡で、線路はこの畦に沿って右にカーブしていたそうだ。

そして奥に3つある建物の真ん中の建物付近を抜けていたらしい。

その建物の裏手に回ってみた。

二人が立っている間がこんもりと盛り上がっている。

おそらく路盤跡ではないかと思うのだが確証がない。

この地点から例の杉林を見てみる。

ここからまっすぐに杉林に向かって路盤が続いていたのだろうか。

近くの民家に突撃取材を敢行してみるものの、線路に関する手がかりはなし。

ただかわりにこんな話を聞いた。

その方は見た感じまだ50歳位の方だったので、実際乗ったことも見たこともないらしいのだが、

父親から聞かされた話では、やはりこの愛宕山への登りは軽便蒸気では相当きつかったらしく、

乗客は降りて後ろから押して登ったのだと言う。

今となっては考えられない話だが、古き良き時代のエピソードであると思う。

そして我々は愛宕山から王城寺原駅方面へ向けて移動を開始した。

もちろん廃線跡の道路を歩いていった。

この廃線跡の道路が国道457号線とぶつかるところを愛宕山方向を向いて撮ったもの。

さっきの写真の反対側。

右側に軽トラックが見えるが、あそこが廃線跡とされる王城寺原駅へ向かう砂利道である。

どういうわけかずれてしまったようだが、軽トラックを運転していたおじいさんに突撃取材したところ、

昔はこのあたりの砂利道の位置がもっと北よりだったと思うと言っていた。

どうやら農地整備で脇の用水路共々改修されてしまったようだ。

昔の位置と違うと言う砂利道。手前の道路は国道457号線。

我々はこの砂利道を突き進む。

資料によると、このあたりが王城寺原駅だったとされる。

そしてこのこんもりとした土の中に今でもプラットホームが眠っているとか。

右の車が当時私の愛車だったホレスター号。

そしてまた出典元不明の資料。

王城寺原駅らしい。腕木式信号機が見える。

上の写真とほぼ同じ地点と思われるが。

このプラットホームが本当に埋まっているのだろうか?

廃線跡とされる砂利道が続く。

写真は東向き。

上の写真の反対側。

この先に本町駅があったらしいのだが・・・

さらに砂利道を進むとこんな場所に出た。

広くなっていて駅っぽい。でも確証がない。

その反対側を大衡方面へ進むと、砂利道はここで途切れてしまう。

それでもなんとか歩き回り、何か手がかりを探していたとき、

こんなところへ迷い込んでしまった。

すっかり整備された周りの水田と明らかに形が違う。

農道もずれている。

ちょうど農作業をしていたおじいさんがいたのでまたも突撃取材を敢行。

すると、「ここが鉄道が走っていたところだ」と言うではないか!

詳しく聞いてみると、この土地の所有者の方だった。

なんでも、鉄道が廃止になったあと農場整備をすることになったが、

この方だけはやらなかったため、水田が昔の形のまま残っているのだと言う。

長さにして約20mほどの農道であるが、唯一の現存する生きた証拠であり、

とても貴重な20mであると思う。

上の写真の反対側、大衡方向を向いている。

明らかに水田が周りと違う形をしている。

教えてくれたおじいさんに礼を言って別れを告げ、大衡駅に向かった。

先ほどの線路跡以外はすっかり整備されてしまっており何もない。

大衡駅に到着。

資料によると昔は亜炭が取れたらしく、亜炭の積み出しのため賑わったとか。

そういう理由なのだろうか?やけに敷地が広い。

そしてやはりJAがある。

ここから大童駅に向かって進んでいく。

このあたりは廃線跡が道路に転用されているので非常に分かりやすい。

当時の雰囲気を色濃く残していると思う。

しかし時間によっては自転車・歩行者用通路になってしまう。

途中で水路を越えている場所があった。

しかし質のいいコンクリート製で、上に架かっている物も鉄道用にしては薄すぎる。

後から作られたものだろう。

更に進むとこんな場所がある。

木橋である。

横から見るとこんな感じ。

資料によると鉄道時代も木橋だったらしいが、現在のものは架け替えられたものらしい。

それでも鋼製の橋梁が主流の世の中でこれは貴重ではないだろうか。

さらに大童駅方面へ進む。

すると、国道457号線とぶつかる場所に出た。

どうやらこのあたりが大童駅があったとされる場所らしい。

そして写真の石川商店が駅業務もやっていたと言うことらしいが、

珍しく突撃しなかったため確証がない。

石川商店の脇に続く廃線跡の道路。

上の場所の反対側。

吉岡へ向けて進んでいく。

雰囲気がいいですねえ。

この道路もしばらく進むと一段高い道路とぶつかり、丁字路となって消える。

しかし資料通りならば、その先に線路を撤去しただけの状態の掘割があるはず。

丁字路の先を一段高い道路から見てみる。

緑が生い茂ってて分からないが、先ほどの道路の高さの位置に確かに路盤が存在していた。

これは大変貴重な区間である。

反対側の保福寺に行く通りに回ってみると・・・

こんな感じになっている。

下は周りの雨水などが流れ込み湿地帯になっているようで、

長靴を履いていてもいけるか微妙である。

夏場はヘビなども怖い。

例によって出典元不明の資料。

保福寺前の陸橋らしい。

現在は橋はなく埋められて道路になっている。

掘割に線路があった頃の貴重な資料である。

上の掘割の写真の反対側である。

現在は道路の高さと同じになっており、

鉄道はもっと低いところを走っていたはずである。

この道路も奥まで行くと民家で行き止まりになってしまう。

その行き止まりになった民家の先に回ってみた。

掘割方向を向いて撮ったもの。

掘割を利用して作ったものなのか、防火水槽が設置してある。

防火水槽の反対側。

もはやこの道路が廃線跡なのか分からなくなってしまった。

仕方ないので先に進む。

確信のないまま道路を進み、片側一車線の道路に出た。

するとその先は資材置き場があった。

果たして廃線はどこなのだろうか?

手がかりを求めてこの置き場の先にある民家に、困ったときの突撃取材を敢行。

すると意外な事実が・・・

これをご覧になっていただきたい。

完全な廃線跡である。

これは先ほどの資材置き場から左奥へ進んだ所にあったものである。

上の写真の反対側。

この赤い屋根のお宅に突撃したのだが、

まさか家の裏手が廃線跡だったとは・・・

右手にいるおばあさんがこのお宅の方。

突然伺ったのに色々と教えてくれてとても感謝してます。

この廃線跡は現在このお宅の所有地になっているので勝手には入れません。

ちなみに廃線跡は左側の倉庫を増築する際に切り取ってしまったとの事。

見事に切れてます。

ちなみにおばあさんがこんなことを言ってました。

「この前もあんだだぢみだいに鉄道のこと聞いて来た人がいだ」と。

廃鉄マニア、恐るべし。

上の写真の反対側。吉岡駅方向である。

おばあさんによると、この緑が生い茂っている場所が廃線跡とのこと。

なんでこんなにぼうぼうになってしまったのだろうか?

一段高いところから廃線跡を望む。

草木がぼうぼうになっているので位置は分かりやすいが・・・

歩くことは不可能に近い。

しばらく吉岡駅に向けて進むと、水田の中に廃線跡が現れる。

大童駅方向を向いて撮ったもの。

現在は農道として使われているようだ。

その廃線跡も、区画整理されてしまった吉岡の住宅地で途切れてしまう。

仕方ないので吉岡駅に向かう。

現在は宮城交通吉岡営業所になっている場所が吉岡駅があった場所らしい。

仙台鉄道は最終的に他の交通事業者と合併して宮城バス(現宮城交通)となったので、

敷地をそのまま利用したものと思われる。

これは起点の北仙台駅も同様で、最近まで宮城交通本社があった。

この先は吉田川に出るまで、このように路盤は消失してしまっている。

もはやどこが廃線跡なのかまったく分からない。

仕方ないので吉田川まで移動してみる。

これは吉田川の南側である。

ここは高田橋という鉄橋が架けられていた。

南側の橋台は国道4号線からも確認することが出来るうえ、

あらゆる書物などで取り上げられているので有名な場所だと思う。

写真の中央に見えるのがその橋台で、写真を撮るために立っているこの場所が路盤跡である。

後ろを向いて撮影したもの。

多少の路盤は残っているものの、その先は水田に消えている。

南側橋台である。

すっかりゴミ捨て場になってしまっているが・・・

反対側から見ると橋台であると分かる。

前と後ろでコンクリートの質が違っている。

それとも築堤に埋まっていた部分と出ていた部分の違いだろうか?

続いて草木が生い茂るジャングルの中から北側の橋台を探してみた。

やっとのことで見つけたのがこれ。

ここから南側の橋台方向を見てみると・・・

赤丸の中に人が立っているが、これが南側橋台の場所である。

北側の橋台のほうが位置的に高くなっていると思われる。

これが現役当時の高田橋。

やはり右に行くにつれ、橋脚が高くなっているように見える。

またも出典元不明の資料だが、水平でない。

 

 さてここでお詫びがあります。

ここまで調査したにもかかわらず、その後の調査は止まったままなのです。

資料精査や個人でおこなった下調査でほぼ現地に行くだけの状態にはなっているのですが、

いつでもやれるだろうというタレカから結局約6年ほったらかしにしてしまいました。

ですので、この続きはいつやるか分からない調査の後と言うことになります。

大変申し訳ないのですが、勝手にここで終わります。

 

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